昭和54年2月10日 朝の御理解 ②③
御理解第18節。
御理解第18節
「此方のことを、みな神、神と言うが、此方ばかりではない。ここに参っておる人がみな、神の氏子じゃ。生神とは、ここに神が生まれるということで、此方がおかげの受けはじめである。みんなもこのとおりにおかげを受けられるぞ。」
此方がおかげの受けはじめと仰せられるそのおかげとは、どういうおかげであっただろうかと。「真に有り難いと思う心すぐにみかげの始め」と仰せられる、その第一の実験者であり、体験者でおありなったということだと思うです。ね。
此方がおかげの受けはじめである、みんなもそのとおりにおかげを受けられる、そこで、私共がそういう有り難しというおかげ、真に有り難いと思う心、そういう心の、いわゆる実験者にならなければならない、体験者にならなければならない。
自分の、都合で有り難かったり、有り難くなかったりというのでは、真に有り難いということにはならない、「此方のことを、神、神と言うが」と仰せられるその、此方のことを神と言うのは、言うならどのような場合であっても、有り難しの実感、またその実感が実験の、実験として、その有り難いに、おかげが、伴うてくるというおかげ、そういう、おかげを教祖金光大神は受けられたと思うのです、そういうおかげの、言うならば、受けはじめであると、こういう有り難い心が開けてくれば、ね、いわゆる、限りないおかげにも繋がって行くことでありまっ、ありましたでしょうし、また、ね、(沈黙)
生神とはここに神が生まれると言うこと、自分の心から次々と喜びが生まれてくる、この喜びこそ、生神の性だ、とご自分が体験をなされた。そしてその、喜びにおかげの伴うことを実験された、ですから私共が、そういう金光大神の言われることを、の、はやり実験をしなければいけません、実験者にならなければ、そしておかげを受け、いよいよ、どこ、どういう風に信心さしてもろうたら、その有り難いというものが頂けるかと。
昨日私は、毎日、えぇ、その、おかげの、言うならば、一つの流れと言うか、系統というものが、あぁ、を感じるんですけども、昨日は、私は心がくらっ、私の心が暗くなるような、お取次ぎを幾つも続けてさせて頂いた、それは、私の信心の心ではなくて、「あらぁあんたまだそんなに分かってなかったの」というっ、思うから心が暗くなるという、のです。ね。長年信心の稽古をさして頂いて、まだ例えば、そのくらいなことが、そのくらいな事で心が、あぁ、動転したり、そのくらいな事で心がクゥ~っとなったり、「まぁだそんくらいしかあんた分かっとらなかった」と思うと、これほどしに日々、此方がおかげを受けたことを、私のおかげの実感を皆さんに聞いてもらってるわけなんだけれども、その実験者でないことなんです。もう私は私の信心を頂いて下さって、そこんところらへんの実験、実験者ではあろうと思うておったのに、もうそりゃ言いやしません、言やしません私も、ね、けれども、本当に信心が自分のものになるということは、やはり一通りのことではないなぁ、やっぱり年期も入れなきゃならないし、しかもそれに、本気で取り組まなければ、おかげおかげと言うておる間は、おかげを受けたらニコニコ、おかげを受けなかったらブーっとしとるというようなことにしかならんとこう思う。もうこれでは、なら今日の御理解の「此方がおかげの受けはじめ」教祖様がおかげを受けられたおかげとはどういうおかげであろうか。
②③私は昨日、ある一つの、実験をさしてもらった。午前中にお取次ぎをさしてっ、これは、あ~、病人さんの、医者、医者番もむつかし、見放しておると言うの、病人さん。私がお取次ぎをさして頂いてもやっぱ難しかろうように、なお知らせであった、と言うのは、えぇ、あの、昔は御葬式ん時に、草履用に紙を巻いた草履がありました、をはっ、履きましたね、今頃は何も履きません、昔は御本部参拝の時っちゃそげんでしたね、宿から奥城っ、あの、お広前参拝すると、かっ、ね、こう、あの白い(?)の立った、御葬式の時に使う御草履です、まああの、あの御葬式がこうやって重ねてあるところを頂いた、だからもう外してこう並べたらもうこれは御葬式になるになるんだな、こりゃぁまだ放してはないから、これは一生懸命お願いせにゃいけんなぁとこう思っておったんですけども、もうこういう時にはお願いだけじゃもういかんごとある。昨日の、をぉ、もうお風呂に入っ、ここ下がってから、お風呂入らして頂くその二・三十分かの間の事でしたけども、もうとにかく有り難いんです、ね、もうそれこそどこから湧いてくるか分からんほどの有り難さです。お風呂へ入らしてもろうて、おふくろっ、体洗わして頂いて、その、ただ有り難いというその心に、まあ、神様にお礼を申さして頂いておったら、午前中に頂いておったその紙をの草履がね、竹の皮の草履に変わったところを頂いた、それもやっぱ重ねたまま、竹の皮草履という、いみっ昔は、今頃はないでしょうかね、ね、おかげを頂いた、っとに有り難いなとこう思う。はは~結局はここで私が皆さんのことを一生懸命お願いをするからおかげを頂くということと、私が頂いておる有り難いという心で、開けんところも開ける、助からんところも助かるというおかげが、合楽では現れておるんだなぁ、これはいよいよ持って教祖金光大神が言われる、「ここに神が生まれるということであって」というほどしの、喜びをいつも絶えず尽きぬように頂いていく精進をしなければならないなと改めて思わしてもらった。ね。私が真に有り難いと思う心は、もう死ぬばっかりの病人が、助かるほどしの働きが起こってくるということ、そこでならこれは皆さんの場合でも同じことが言えるんです。(?)して、一つ有り難うなさせて頂く、それも、そのおかげに繋がるような、ね、死ぬはずの者が助かるほどしの働きに繋がるようなおかげを頂かなければならない。
昨日は、もう、お食事がすんで、久富先生から足を揉んでもらっておる時でした、今から(?)にお礼に出ますから、あぁ、まあ私自身が、に、まっ待っておってくれという、そんで出てみえられた、そして、まあお礼にと言うて、もう日本でもいくたんとはもうあるまい、もう、これを作った方が、これが最後と言われるほどしの反物である、いわゆる手織りの何とかと言う、もうお金にするなら幾らかかるやら分からんっちいうようなもの、その、袴地の反物を、夫婦でお礼にと言うて参拝してみえた、あらぁこんなのもうそれこそ見たこともない、ような、それでまた、その、京都の方へそれをまたこう、何か、たたっ、たたきなさる、あんまりガワガワしとるから、たたき、こうたたいて、そしてまた柔らかにして、まあ仕立ててから、また持って来るということでした。5・6日前に、こっ、これももう今時の呉服、呉服屋さんでんも知るまいと思うような、素晴らしい袴下の角帯を頂いておった、これも手織りであった、しかしこげなこつが例えば、あぁ、あの、またそれ仕立てなければならないですね、で、先日からこげな足袋をあの、帯を頂いたがと言うてから、それを出して、その方は大変、ん~、反物に詳しい方ですから、見せましたら、またそれをたまがられた、どういうことかと言うと、こういう袴を履く人でなからなければ、こういう帯は出来ないと言うほどしの帯であった。私はいつも思うんですけれども、いつもね、えぇ、言うならば、あの反物を頂いたらそれに釣合うた羽織もなからなきゃいかん、袴もなからなきゃいけない、勿論帯もそうである、そしてそれをどうぞ仕立てさして下さいと言う人がなかなきゃ、(?)、着らんと言うのが私の主義なんです、こりゃぁ私が一緒に持って帰らして頂いて、あの一緒に御仕立てをさして頂いて、また持ってまいりましょうということでありました。帯ももう、それこそまあ、福岡久留米あたりの幾ら最高の呉服屋さんでも、こういう帯は今時持っちゃおるまいと言うような帯であったし、その昨日の袴地もやっぱりそうであった。ね。本当に例えばね、人が助かるほどしの有り難さには、こういう言うならば、裳類なものまでも集まってくるほどのおかげが繋がっておるなということを、また改めて分からして頂いた。ね。ですから皆さんどうでも、ここに神が生まれるということであってと言うほどしの有り難さ、私共がね、有り難いね勿体無いねと言うとるのが、浅~い程度の低い、言うなら綿繊維程度の有り難さであるかも知れん、ね、言わば人権程度の有り難さかも知れない、ね、お飯程度の有り難さかも知れない、もう幾らかかるやら分からんというほどしの反物の、言うならば、に、あたえするほどしの、有り難さというものもあるということ、私共の有り難いと思うておる、その有り難いというものを、検討にも検討を加えて、より、より本当の有り難さを目指して、お互い信心の、いよいよ稽古をさせて頂かなければならん。
自分の有り難いが一家中、自分の有り難いが、それこそ、赤の他人の誰彼の上にでも、例えば死ぬはずの者が甦れるほどしの有り難い、有り難いというものにおかげは伴うのである。ね。そういう有り難いに伴うてくるところのおかげを頂きたい。
いよいよ持って有り難うならせて頂くことの楽しさということになってくる。ね。しかもその有り難いというものには限りがない、だから限りない精進さして頂いて、有り難うなって行く、言うならば、ね、現金なようですけれどもおかげが伴う、ね、おかげが伴うほどしの有り難さを求めて、私は信心の稽古はさしてもらうべきだと思う、ね、そこでならどういう信心すればということは、日々頂いておる通りである、いよいよ持って天地日月の心を、本当に日月の心を足らしめる修行、ね、そういう修行を神様がさせて下さる、ろうとする働きを感じきらずに、ね、例えばそこに難儀と思う、暗い心になるような、もうそれをそれこそビカビカ光るような、働きにも力にもさして頂けれるチャンスを頂いておりながら、ね、信心して例えばどうしてこのようなことがといったようなことであったら、信心がいつも止まっておることになるじゃないですか、止まっておっては、言うなら、自信心は進みません、はぁ都合良い時だけは、はぁもう有り難い、こげな有り難きはそうもない、その有り難いではおかげには繋がらないということなんですね。
昨日は、宮崎から、ある電話のある方がかかったが、一千万円もする物が紛失したと言う、お届があった。ね。それが今朝方、その、その方がお夢を頂いておるそのお夢をお届しておられましたが、一生懸命自転車を踏んでおる、しかも山坂を自転車で踏んでおる、がそこに、何とかと言う、そっスピチーか何かっち言うごたる犬がおるでしょう、何ち言うですかあれは、あ?、スピッ、スピチーか何かそげな名前ですよ、細か可愛らしい犬のことです。その犬がその道に、二匹おる、してよくよく見たところが、足が四本なかにゃならんとに、前足だけが、二つともないっちいう、ね、どういうことでしょうかと、皆さんなら聞きよってから分かるでしょうすぐ、山登りを自転車でしよる、そしてそこに二匹の犬がある、ね、それは、えぇ、まあご夫婦の事です二匹の犬というのは。それがその可愛らしい犬だけれども、その前足が二本どっちもないっちいう、ね、それで私は申しました、その問題がその問題として、もう自分で探そう、自分でどうということを止めて、ね、もうそれはおかげを頂くということのね、もう手が無いということなんだ、ね、自転車ということは、自分で、自分の我力で踏むということです、ね、もう自転車から下りて、ねもうそっ、その他、もう手の打ちようがない、前の手が、四本じゃけんで、後んとが足なら前んとが手、手が、二匹とも無い、もう言うならば、打つ手がない、おかげを頂く手っ、手立てがない、だからそういう時には自分の我力を、をせずに、ね、もういよいよ神様にお縋りするというても、任せ切ってのお縋りというようなことになればそこからおかげが受けれられるでしょう、前の朝にそういうお知らせまで頂いておるということですから、私はおかげになると思うと言うて、お取次ぎさして頂いた。ね。もう自分で踏むのを止めようと、もうこの事はおかげに、おがげの手立てがない、ね、もう、もう手がない、ところ、前、神様がお知らせ下さってあるんだから、もう神様の手に縋るより他にない、神様から助けてもらうより他にはない、ね、私は真に有り難いという心の精進というものはね、もうそういう神様に、もう委ね任せ切ったところから、ね、神愛を悟らしてもろうた、有り難いといったようなものがなからなければ、いわゆる、ここに神が生まれるというほどしの、有り難いということではない、とにかく神様のおかげと言わずにはおれないというほどしのおかげに繋がってくるということはないと思う。うん。
皆さんがそういうおかげのです、例えば皆さんの家庭の上にでもです、ね、私が内の家では、そういうおかげの受け始めであるというほどしの、一つ有り難いを目指さしてもろうて、ね、あなたの一人の有り難いが一家中を光に潤すことが出け、おかげに浸らして頂くことが出来るほどしのです、ね、おかげにも繋がって行くような、それが皆さんの周辺にも、いよいよその光の輪おかげの輪が広がって行くようなおかげを楽しみに信心さしてもらう、楽しみにそういう信心を願って行く求めて行く、そういううんならおかげの頂けれるチャンスというものはです、やはり普通で言うなら難儀を感ずる時、それは、ね、難儀ではない、もう言うならおかげの頂けれる、神徳の塊のようなものである、ね、それを逃しちゃ勿体無い、というようにそのところを合掌して受けれるような心の状態を作る、いよいよ行き詰まったら、それにバタバタするのじゃなくて、ね、神様にいよいよ委ねすっ、委ね縋っての、言うならばおかげを頂かしてもろうて、初めて実験者となり、ね、体験者となることが出来、なるほど真に有り難いという心に、おかげまで伴うて来るんだということを分からして頂く、そのおかげもいよいよ高度なおかげになってくる、ね、立派なおかげになって来るという、おかげでなからなければならん、ね、それが楽しいのである、それが有り難いのであるという信心を、一つ見に付けて行きたいと思うですね。
どうぞ。
入力者:秋山誠輝